【読書メモ】読書について 他二篇|ショウペンハウエル著 斎藤忍随訳 (岩波文庫)
>>読書について 他二篇 (岩波文庫 青632-2) [ ショウペンハウエル,A. ]
本の情報
基本情報
書籍名 | 読書について 他二篇 |
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著者名 | ショウペンハウエル |
翻訳者 | 斎藤忍随 |
出版社 | 岩波書店(岩波文庫) |
発行日 | 1960年4月5日 |
内容紹介(表紙より)
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失って行く。」―― 一流の文章家であり箴言警句の大家であったショウペンハウエル(1788-1860)が放つ読書をめぐる鋭利な寸言, 痛烈なアフォリズムの数々は, 出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。
引用元: 『読書について 他二篇』 表紙
抜き書き
読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。
引用元:『読書について 他二篇』 P11
読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。こういう人は報告すべき材料をいろいろ持ち合わせているが、その土地の様子についてはまとまった知識も、明瞭な基礎的知識もまったく欠いている。
引用元:『読書について 他二篇』 P13
あらかじめ完全な設計図を引き、細部にいたるまで考え抜いて仕事にあたる建築家のような著作家は少ない。むしろほとんどの著作家は、ただドミノ遊びのような調子でペンを運ぶ。つまりドミノの駒を並べてゆくように、半ばは意識的に、半ばは偶然に支配されて文がつながり、結合してゆく。全体としてはどういう形の文になるのか、どういう結末になるのかほとんど不明である。
引用元:『読書について 他二篇』 P112
「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。
引用元:『読書について 他二篇』 P138
精神的教養が高まれば、ほとんどただ著書にだけ楽しみを見いだし、もはや著者には興味をおぼえないという高度な水準に、しだいに近づくこともできる。
引用元:『読書について 他二篇』 P139
精神のための清涼剤としては、ギリシア、ローマの古典の読書にまさるものはない。たとえわずか半時間でも、古典の大作家のものであればだれのものでもよい。わずか半時間でもそれを手にすれば、ただちに精神はさわやかになり、気分も軽やかになる。心は洗い清められて、高揚する。旅人が冷たい岩清水で元気を回復するようなものである。これはいったい古典語という完全無欠な言語のせいであろうか。それともいく千年の歳月にも傷つけられぬ作品を生み出した精神の偉大さのためであろうか。おそらくこの二つが相伴って、我々の精神に不思議な作用を及ぼすのだろう。
引用元:『読書について 他二篇』 P139
悪書を読まなすぎるということもなく、良書を読みすぎるということもない。悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。
良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
引用元:『読書について 他二篇』 P134